2010年8月13日金曜日



 夢という言葉に、漠然と楽しいことや希望を思い描ける人は、
少し楽天的であると言えるでしょうか。人は少し楽天的な方が、
精神的には健康であるという言葉を聞いたことがあります。その
言葉を気に入って、覚えている私も少し楽天的かも知れません。
 夢の本来の意味は寝ているときに見る夢です。人は睡眠中に目
を頻繁に動かす時期が何回かあって、その状態をREM(rapid
eye movement) 睡眠といいます。その時に人は夢を見ているので
す。REM睡眠中に人を起こすと、そのときに見ていた夢を語り
ますが、REMを過ぎた後で起こすと、人は夢を覚えていません。
人が自覚できるのは、起きがけの夢のみです。
 脳が知的活動をする上で、生理的に夢が必要なのであろうと考
えられますが、どのように夢が役立っているかについては、知的
活動の原理と共に大変魅力的な謎です。

 私たちが夢を見ているとき、その時点で見えていることは現実
ではないので、まだ実現されていない期待や望みを「夢」という
言葉で語られます。したがって、直ぐに実現されそうなことは夢
とは言い難いものになります。夢は叶った瞬間に夢ではなくなる
ようです。人が夢を求めて努力しているとすれば、全ての夢がも
し叶ってしまったら生きる目標を見失うことになります。しかし、
幸いかどうか分かりませんが、人の欲望には限りがありません。
一つの夢が叶うと、普通の人は、また新たな別の夢を懐くので、
元気に生き続けることができます。しかしあまりにも欲張って、
夢を沢山持つと、多すぎる夢がストレスとなり、生きることが不
自由になります。そんな人には煩悩を捨てなさいとの教えもあり
ます。何事も中庸が肝要です。

 田舎でゆっくりとした時間の中で、精神的に豊に暮らしたいと
いう憧れを、私は持っています。しかし都会に慣れた者にとって、
田舎での生活には、困ることが多々ありそうです。それが理由で、
家内は断固反対なのです。ささやかではありますが、これは私に
とって夢であり続けるでしょう。
 夢は期待や望みなどの良いイメージを多く表します。望んでも
見なかったな幸せが巡ってきたとき、「夢のようだ」と表現され
ます。しかし夢には、現実ではないというマイナスのイメージも
あり、「夢みたい」なことばかりを語る人は、荒唐無稽で非現実
的な夢想家と評価されます。

 私たちが寝ているときに見る夢は、楽しいことばかりではあり
ません。怖い夢や、悲しい夢も見ます。人は見たくはない恐ろし
い夢を、何故繰り返し見ることがあるのでしょうか。大学の卒業
がかかった学期末定期試験で落第点を取る夢を繰り返しみるとい
う人の話を聞いたことがあります。このトラウマのような悪夢は、
二度と同じ過ちを繰り返さないための罰なのでしょうか。
 実は私には、子供の頃から引きずっている悪夢があります。大
人になるに従って、その怖さの内容が変化しているのです。私が
子供時代を過ごした自宅は、中央線沿線の駅前の商店街にありま
した。毎年、近くの神社で秋祭りがあり、小遣いを貰って神社の
出店を歩くのが楽しみでした。祭りには、我が家が属する商店街
からも、神輿が繰り出されました。それは大人だけのもので、子
供は山車を引くものと決まっていました。子供専用の神輿が作ら
れたのは、私が大人になってからでした。

 神輿というと、多くの人は陽気な雰囲気を連想されると思いま
す。しかし私が見ていたのは陰気で凄みのある神輿でした。自宅
商店の2階の窓から神輿を覗き見ることは、神様に対し不敬であ
り、してはいけないと言い聞かされておりました。そのことは、
大人しか担げない神輿に畏怖の念を抱かせるには十分でした。担
ぎ始めの神輿を見ると、赤ら顔の大人達は楽しそうに陽気に担い
でいました。しかし練り歩いたあとで戻ってきた神輿は、誰もが
顔面蒼白で、放心状態の様であったり、苦しそうに眉間にしわを
寄せていたりしていたのです。発する声は、決して「ワッショイ!
ワッショイ!」ではなく、「ウッセ!ウッセ!」と低く沈んだ声
でした。担ぎ手はすでに十分に酒を飲んでいて、神輿の奇跡はあ
っちへフラフラ、こっちにフラフラという状態です。神輿の進行
をリードする3,4人程の付き添いは皆シラフであり、大きな内
輪で担ぎ手を扇いだり、水を掛けたり、細々と世話をしておりま
した。しかし、その人たちの一番大事な仕事は、時折り、神輿が
グラッと傾いて、突然その方向に突っ込むのを全員で反対に押し
返して、必死に止めることでした。暴走する先にあるのはガラス
のウィンドウなどがある商店だったのです。いつ事故があっても
おかしくないような神輿を、怖い物見たさで遠くから眺めていま
した。しかし私は一度もそのような事故を見たことはありません
でしたが、「○○屋さんに神輿が突っ込んだ」という噂を聞くこ
とはありました。その噂には、「○○屋は、祭りの寄付が少なか
ったらしい」という解説が尤もらしく付いていました。ときたま
思い出される神輿は、子供の頃の私にとって悪夢のような怖いも
のでした。他所で陽気な普通の神輿をみることもありましたが、
何故か本物の神輿ではないと思ってしまうのです。その恐ろしい
神輿に、私は誇りさえ感じていたのです。

 高校や大学時代には、さすがに神輿が怖いという悪夢からは解
放されました。しかし、彼らは何が楽しくて神輿を担ぐのか理解
出来ず、私に取って神輿は眺めるモノであり、決して自ら担ぎ手
となって参加しようと思ったこともありませんでした。
 大人になって、人間関係や組織の狭間で多少のストレスを感じ
るようになったとき、突然にその悪夢が甦ったのです。凄みを帯
びた神輿の様子が実にリアルに思い出されました。多くの担ぎ手
は、担ぐと言うよりは、反対方向から寄りかかっているだけで、
辛うじて保たれるバランスによって倒れないでいるのです。中に
はぶら下がって、力なく伸ばした足が地面を滑っている人まで居
たのです。陶酔しているが、しかし担ぐことへの真剣さはヒシヒ
シと伝わってくる様子に、どこか惹かれるものも感じます。また
このような神輿は、不安定に見えても実は案外安定しているのか
も知れないと考えたこともありました。しかし結局は陰気な神輿
は再び怖い悪夢となりました。

 組織運営などで、ストレスを抱えている人の愚痴を聞くとき、
悪夢の神輿を語ったことがありました。そのとき、誰もが引き込
まれるように聞き入って、大きく頷くのです。

2010年8月4日水曜日

懐かしさ


都立武蔵丘高校のクヌギ林(H22/8/17撮影)


 (都立武蔵丘高校創立70周年記念同窓会誌に寄稿)

 高校の同期会に初めて参加した。そのときから、同期の友人や母校など
が、無性に懐かしく心に浮かぶようになった。高校の景色で、真っ先に思
い浮かぶのは、落葉した高木(こうぼく)の林である。寒風吹きすさぶ真
っ青な空に、どこまでも細かく入り組んだ枝の線画、遠くからもクッキリ
と見えるその勇姿は、回りを圧倒していた。落葉した林の王者は、なんと
いっても欅(けやき)である。私は母校の林をてっきり欅だと長い間思い
込んできた。その林は、ときには繊細に季節を映し出していた。パステル
カラーの新緑の梢、優しく広い日陰を作る色濃く生い茂った枝、秋を彩る
林、それらはグランドに出ると必ず目に入った。この林から、さまざまな
高校時代の様子を思い描いている内に、欅の滑らかで堅い幹に違和感を覚
え、その林が欅ではなかったかもと、気になりだした。どうしても林を確
認したくなり、猛暑だったにも拘わらず、約50年ぶりに母校に行って、
懐かしい林に再会した。そして人の記憶には当てににならない部分がある
ことを痛感した。それはクヌギ林だったのである。

 すべての感情は、人に適切な行動を促したり、何らかの役に立っている
と私は思う。人は懐かしさに惹かれ、求め、癒されるが、懐かしいと思う
感情は何の役に立っているのだろうか。出会った昔の仲間を懐かしく思い、
お互いを信頼し協力する関係が築きやすくなるなら、懐かしさはグループ
の結束に役立っている。懐かしいという感情を抱く対象は、遠い過去の事
柄である。しかし過去のことであっても、ずっと現在まで継続しているこ
とを懐かしいとは思わない。懐かしい父母は、別れて久しいときの思いだ
ろう。そして、過去のある時点のみの事柄ではなく、長期に継続して接し
ていたり、行なってきたことが懐かしい。そして、楽しかったり幸せだっ
た過去を懐かしく思い出す。しかし、辛かったり思い出したくない過去で
さえも、十分な時間経過の後に、辛さ、悲しみなどが薄れ、楽しかったこ
とのみが思い出され、懐かしむことがある。

 いまは公害に悩んでいるが、昔は自然に恵まれていたという地域を想像
しよう。そに住む人が、昔の故郷を懐かしく思い、自然を取り戻す運動の
強力な動機付けになるなら、懐かしさは人を良い方向に導くことになる。
逆に否定すべき過去の場合でも、過去の状態を求める訳ではないが、単に
思い出として懐かしむことがある。私は子供の頃、軍隊での体験話を聞く
機会が何回かあった。話し手にとっては二度と経験したくないことなのだ
が、辛い中での僅かな楽しみや息抜きを、とても懐かしそうに話していた。
実話であることの迫力に圧倒されて、私も夢中になって聞いたが、本人も
子供の私に進んで話してくれた。今、現実に起こっている出来事は、どん
なに辛くても、つぎつぎと気持ちを整理して受け入れないと、我々は生き
て行けない。しかし、そのための心の負担が大きいので、直ちに心を整理
しなくても良いことは後回しにされて、無意識下に時間を掛けて、記憶に
メリハリをつけたり、出来事の意味づけや認識を再構築して、受け入れや
すい内容に浄化させるのだ。辛かったことの記憶はやがて薄れ、楽しいこ
とは何時までも覚えている。辛かったはずのことをいざ思い出してみると、
意外とそれ程でもなく、記憶は描き直されている。無意識の下に自分の心
が勝手にやってしまっていることを、我々は自覚できない。そんな落差が
懐かしさを作りだすのではないだろうか。そして懐かしさは、愛しい記憶
を思い出すことを促す。

 現在は過去からつながっている。しかし、もし過去が受け入れられない
場合、現在を前向きに生きられなくなる。現在を前向きに生きるのに役立
つならば、記憶の浄化も悪くはない。

2010年6月16日水曜日

中学校の同期会


            息子達が幼いとき、豆まき用に作ったお面




 これまでごく希に開催されてきた高校の同期会に、先月初めて出席し、同期生との再会を楽しんだ。会場へ着くまでの間、抱き続けていた戸惑いと気後れの主な原因は、私が高校時代を根暗に過ごしたからに違いない。高校時代の記憶は僅かしかないと思っていた。大学受験や将来の就職への漠然とした不安を常に感じ続けていたあの時代には、楽しい思い出が少なかったので、無意識に忘れようとして来たのかも知れない。しかし同期の友人に実際に会ってみると、会話に触発されて、少しずつではあるが高校時代の多くの出来事が不思議と思い出される。無性に懐かしい。長い熟成の時を経て、マイルドになった記憶を味わうのは心地よかった。高校の同期会に出席するためにメールで連絡していたとき、ある同期生から中学の同期会が初めて開かれることを知らされ、参加を強く勧められた。彼とは中学も一緒で、根暗の私と異なり、明るいスポーツマンであり、私にとっては眩しい存在だった。そんな彼が私を覚えていてくれたことに感謝と義理を感じ、中学校の同期会開催の発起人代表に連絡をとった。



 間もなく発起人代表から、打合せ会出席への誘いの封筒が届き、そこには中学のクラス毎の集合写真と、卒業生の名簿が同封されていた。私のアルバムはすでに紛失していて、その写真とは数十年ぶりの対面であった。写真の顔は小さいのでおぼろげなのに、それらを凝視していると、忘れていた何人かの名前と顔が鮮明に思い出される。そして、途方もなく懐かしさがこみ上げて来て、是非とも打合せ会に出席したいと思った。卒業した大学に教員として残り、その大学の同窓会活動に長年係わってきた私は、親睦も大切ではあるが、同窓会活動に参加する卒業生の重要な目的は直接の利害の方にあると思ってきた。卒業生が立派に活躍することが母校の名誉であり、母校が発展することは卒業生の誇りとなる。そして同窓会を通じての人脈や情報は仕事の上でも役に立つ。中学、高校の同窓生が、純粋に親睦のみを目的として集うことを、普通の人とは逆に、私は訝しく思ってきた。懐かしい同級生が今していることに関心を持つのは当然なのに、自分も持っているその気持ちに、何か不純なものがあるように錯角していたことが、高校や中学の同期会参加へのハードルを高くしていた。

 同期会の打合せは地元阿佐ヶ谷の商店街(パールセンター)横で行われた。母が逝ってから、そこにはあまり立ち寄ることが無くなっていた。前回訪れたときも阿佐ヶ谷の変化に見違えたが、今回も更に変わっていた。東京の街はどこも激しく変わり続けている。自分が育った頃の故郷はそこにはない。私の思い出の記録は街にはなく、同期生との係わりにあると思う。中学時代に、学芸会で「泣いた赤鬼」の主役に抜擢されたことがあった。私の学校生活で、人から注目される機会を待ったのは、この1回きりであった。公演の後の楽屋で、顔に塗った赤いメーキャップを、憧れの女生徒に落としてもらったことが、長年大切にしてきた中学時代の数少ない思い出の一つだ。しかし打合せ会に出席し、恩師や同期生の名前を耳にする度に、予想以上に多くのことが思い出された。3年のときの担任で、明るくて熱心な英語の先生、当時の私が悩んでいた数学の問題に明確に答えてくれた若い数学の先生、大好きな図工の時間に、私の作品を見守ってくれていた美術の先生など…。ゆっくりと甦る記憶の多さに戸惑いながら、タイムカプセルにしまっておいたものに再会したような思いだった。歳を取ると、仕事を離れた付き合いは大切に思えてくる。私達は集まった同期生の今も知ることができ、新しい出会いを果たしたのだ。打合せの後の懇親会も終わって解散するとき、私の気持ちはまだ高揚していた。夜も遅くなっていたのに、相手の迷惑を敢えて考えずに、近くに住んでいる幼なじみの同期生に電話をした。彼とは20年以上も会っていない。たまたま彼は電話口に出てくれて、阿佐ヶ谷の駅前まで飛んできてくれた。本当は彼も打合せに参加するはずだったが、連絡に手違いがあったのだ。皆は帰ったのに、私の終電時刻が気になり始めたときにも、二人はまだ語り続けていた。

 次の打合せ会は7月14日(水)夕刻に予定されている。そして開催が待たれる同期会は、7月29日(木)午後2時から、阿佐ヶ谷の新東京会館で開かれる。私はそこで、更なる新しい出会いに期待をよせている。
 

 

阿佐ヶ谷中学校第8期同期会発起人代表は岡崎孝夫氏で、メールアドレスはつぎの通りです。
                  tkokazaki@nifty.com
 

 

 

高橋(旧姓:齋藤)静昭




2010年3月8日月曜日

私の最近のテーマ











 5,6年前から強く意識し始めた定年でした。そして思いは、現役時代から描いていて出来なかったこと、例えば解析学や統計学の独創的な自習教材の作成です。平面や立体図形による説明を多く取り入れるなら、図形のイメージを描ける人には極めて直視的で分かりやすい教材となる筈です。また、趣味の尺八演奏の猛特訓や、ポピュラー音楽の尺八譜による採譜、あるいは自前のホームページの作成、別荘での長期滞在など、これらは定年後に直ぐ実行できると思ってきました。
 しかし、定年間際は結構忙しかったのです。今年度を含めてあと3年は非常勤講師として教鞭を執りますが、授業は僅か週2,3回程度になりました。その分、買い物の手伝いや愛犬の散歩など、家庭サービスに時間を取られ、またなんと私の息子が二人とも、私の定年直後の年に結婚式を挙げたのです。お陰様で、夢に描いていたことの準備は滞り、また定年の感傷にひたる暇はありませんでした。何度も送別会を開いて頂いた大学、卒業生、後援会の皆々様、粗大ゴミ扱いをしないで私をこき使う家内や、親孝行の息子達に、大いに感謝しているところです。
 新しい生活の中で時間をもてあましている訳でもないのに、愛犬をモデルに、ピーターラビットのような漫画を描いてみたいとの、新たなテーマが沸いてきました。愛犬と接する時間が長くなり、より愛着がわいてきたのでしょう。そして愛犬のデッサンを少し始めました。また、我が家の近所に指導付きで貸し農園をしている農家があり、近々そこに参加する積もりでおります。勿論これまでに描いていたテーマをやめている訳ではなく、それなりにゆっくりと進んではいるのです。次々としたいことが出てくることが、健康の一つの指標だと思っています。