2010年8月4日水曜日

懐かしさ


都立武蔵丘高校のクヌギ林(H22/8/17撮影)


 (都立武蔵丘高校創立70周年記念同窓会誌に寄稿)

 高校の同期会に初めて参加した。そのときから、同期の友人や母校など
が、無性に懐かしく心に浮かぶようになった。高校の景色で、真っ先に思
い浮かぶのは、落葉した高木(こうぼく)の林である。寒風吹きすさぶ真
っ青な空に、どこまでも細かく入り組んだ枝の線画、遠くからもクッキリ
と見えるその勇姿は、回りを圧倒していた。落葉した林の王者は、なんと
いっても欅(けやき)である。私は母校の林をてっきり欅だと長い間思い
込んできた。その林は、ときには繊細に季節を映し出していた。パステル
カラーの新緑の梢、優しく広い日陰を作る色濃く生い茂った枝、秋を彩る
林、それらはグランドに出ると必ず目に入った。この林から、さまざまな
高校時代の様子を思い描いている内に、欅の滑らかで堅い幹に違和感を覚
え、その林が欅ではなかったかもと、気になりだした。どうしても林を確
認したくなり、猛暑だったにも拘わらず、約50年ぶりに母校に行って、
懐かしい林に再会した。そして人の記憶には当てににならない部分がある
ことを痛感した。それはクヌギ林だったのである。

 すべての感情は、人に適切な行動を促したり、何らかの役に立っている
と私は思う。人は懐かしさに惹かれ、求め、癒されるが、懐かしいと思う
感情は何の役に立っているのだろうか。出会った昔の仲間を懐かしく思い、
お互いを信頼し協力する関係が築きやすくなるなら、懐かしさはグループ
の結束に役立っている。懐かしいという感情を抱く対象は、遠い過去の事
柄である。しかし過去のことであっても、ずっと現在まで継続しているこ
とを懐かしいとは思わない。懐かしい父母は、別れて久しいときの思いだ
ろう。そして、過去のある時点のみの事柄ではなく、長期に継続して接し
ていたり、行なってきたことが懐かしい。そして、楽しかったり幸せだっ
た過去を懐かしく思い出す。しかし、辛かったり思い出したくない過去で
さえも、十分な時間経過の後に、辛さ、悲しみなどが薄れ、楽しかったこ
とのみが思い出され、懐かしむことがある。

 いまは公害に悩んでいるが、昔は自然に恵まれていたという地域を想像
しよう。そに住む人が、昔の故郷を懐かしく思い、自然を取り戻す運動の
強力な動機付けになるなら、懐かしさは人を良い方向に導くことになる。
逆に否定すべき過去の場合でも、過去の状態を求める訳ではないが、単に
思い出として懐かしむことがある。私は子供の頃、軍隊での体験話を聞く
機会が何回かあった。話し手にとっては二度と経験したくないことなのだ
が、辛い中での僅かな楽しみや息抜きを、とても懐かしそうに話していた。
実話であることの迫力に圧倒されて、私も夢中になって聞いたが、本人も
子供の私に進んで話してくれた。今、現実に起こっている出来事は、どん
なに辛くても、つぎつぎと気持ちを整理して受け入れないと、我々は生き
て行けない。しかし、そのための心の負担が大きいので、直ちに心を整理
しなくても良いことは後回しにされて、無意識下に時間を掛けて、記憶に
メリハリをつけたり、出来事の意味づけや認識を再構築して、受け入れや
すい内容に浄化させるのだ。辛かったことの記憶はやがて薄れ、楽しいこ
とは何時までも覚えている。辛かったはずのことをいざ思い出してみると、
意外とそれ程でもなく、記憶は描き直されている。無意識の下に自分の心
が勝手にやってしまっていることを、我々は自覚できない。そんな落差が
懐かしさを作りだすのではないだろうか。そして懐かしさは、愛しい記憶
を思い出すことを促す。

 現在は過去からつながっている。しかし、もし過去が受け入れられない
場合、現在を前向きに生きられなくなる。現在を前向きに生きるのに役立
つならば、記憶の浄化も悪くはない。

0 件のコメント: