2010年6月16日水曜日

中学校の同期会


            息子達が幼いとき、豆まき用に作ったお面




 これまでごく希に開催されてきた高校の同期会に、先月初めて出席し、同期生との再会を楽しんだ。会場へ着くまでの間、抱き続けていた戸惑いと気後れの主な原因は、私が高校時代を根暗に過ごしたからに違いない。高校時代の記憶は僅かしかないと思っていた。大学受験や将来の就職への漠然とした不安を常に感じ続けていたあの時代には、楽しい思い出が少なかったので、無意識に忘れようとして来たのかも知れない。しかし同期の友人に実際に会ってみると、会話に触発されて、少しずつではあるが高校時代の多くの出来事が不思議と思い出される。無性に懐かしい。長い熟成の時を経て、マイルドになった記憶を味わうのは心地よかった。高校の同期会に出席するためにメールで連絡していたとき、ある同期生から中学の同期会が初めて開かれることを知らされ、参加を強く勧められた。彼とは中学も一緒で、根暗の私と異なり、明るいスポーツマンであり、私にとっては眩しい存在だった。そんな彼が私を覚えていてくれたことに感謝と義理を感じ、中学校の同期会開催の発起人代表に連絡をとった。



 間もなく発起人代表から、打合せ会出席への誘いの封筒が届き、そこには中学のクラス毎の集合写真と、卒業生の名簿が同封されていた。私のアルバムはすでに紛失していて、その写真とは数十年ぶりの対面であった。写真の顔は小さいのでおぼろげなのに、それらを凝視していると、忘れていた何人かの名前と顔が鮮明に思い出される。そして、途方もなく懐かしさがこみ上げて来て、是非とも打合せ会に出席したいと思った。卒業した大学に教員として残り、その大学の同窓会活動に長年係わってきた私は、親睦も大切ではあるが、同窓会活動に参加する卒業生の重要な目的は直接の利害の方にあると思ってきた。卒業生が立派に活躍することが母校の名誉であり、母校が発展することは卒業生の誇りとなる。そして同窓会を通じての人脈や情報は仕事の上でも役に立つ。中学、高校の同窓生が、純粋に親睦のみを目的として集うことを、普通の人とは逆に、私は訝しく思ってきた。懐かしい同級生が今していることに関心を持つのは当然なのに、自分も持っているその気持ちに、何か不純なものがあるように錯角していたことが、高校や中学の同期会参加へのハードルを高くしていた。

 同期会の打合せは地元阿佐ヶ谷の商店街(パールセンター)横で行われた。母が逝ってから、そこにはあまり立ち寄ることが無くなっていた。前回訪れたときも阿佐ヶ谷の変化に見違えたが、今回も更に変わっていた。東京の街はどこも激しく変わり続けている。自分が育った頃の故郷はそこにはない。私の思い出の記録は街にはなく、同期生との係わりにあると思う。中学時代に、学芸会で「泣いた赤鬼」の主役に抜擢されたことがあった。私の学校生活で、人から注目される機会を待ったのは、この1回きりであった。公演の後の楽屋で、顔に塗った赤いメーキャップを、憧れの女生徒に落としてもらったことが、長年大切にしてきた中学時代の数少ない思い出の一つだ。しかし打合せ会に出席し、恩師や同期生の名前を耳にする度に、予想以上に多くのことが思い出された。3年のときの担任で、明るくて熱心な英語の先生、当時の私が悩んでいた数学の問題に明確に答えてくれた若い数学の先生、大好きな図工の時間に、私の作品を見守ってくれていた美術の先生など…。ゆっくりと甦る記憶の多さに戸惑いながら、タイムカプセルにしまっておいたものに再会したような思いだった。歳を取ると、仕事を離れた付き合いは大切に思えてくる。私達は集まった同期生の今も知ることができ、新しい出会いを果たしたのだ。打合せの後の懇親会も終わって解散するとき、私の気持ちはまだ高揚していた。夜も遅くなっていたのに、相手の迷惑を敢えて考えずに、近くに住んでいる幼なじみの同期生に電話をした。彼とは20年以上も会っていない。たまたま彼は電話口に出てくれて、阿佐ヶ谷の駅前まで飛んできてくれた。本当は彼も打合せに参加するはずだったが、連絡に手違いがあったのだ。皆は帰ったのに、私の終電時刻が気になり始めたときにも、二人はまだ語り続けていた。

 次の打合せ会は7月14日(水)夕刻に予定されている。そして開催が待たれる同期会は、7月29日(木)午後2時から、阿佐ヶ谷の新東京会館で開かれる。私はそこで、更なる新しい出会いに期待をよせている。
 

 

阿佐ヶ谷中学校第8期同期会発起人代表は岡崎孝夫氏で、メールアドレスはつぎの通りです。
                  tkokazaki@nifty.com
 

 

 

高橋(旧姓:齋藤)静昭




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